塩田が”信州の鎌倉”とか”文化財の宝庫”とかいわれて、たくさんの人人を迎えるようになったのは、わずか十数年前からのことである。
祭・休日はもちろん、平日でも列をなして車や人が訪れてくるのをみて、まず目をみはったのは、ほかならぬこの塩田の住人たちであった。それはこのような山里へ文化財をたずねて来る人たちが、こんなにも多いものかという驚きの目でもあり、またこの「わが塩田」にそんな価値があったのかという”ふるさと見直し”の目でもあった。
そして同時に、塩田の人人には、いたるところに散らばるようになった煙草の吸いがらや、その数が増す一方の道ばたの空きかんなどから、考えさせられることが、多くなってきたのも事実といわねばならない。
塩田に生れ育った歴史好きのものたちが集った。そしてすこし身にしみた塩田の研究をやろうではないか一ということになった。
塩田を研究すれば、その価値はどこにあるのかわかる。それがわかってきたら、塩田の人たちに伝えることだ。塩田の人たちは、きっと塩田を大切にするようになる。そうすれば、はるばる塩田へやってきてくれる人人にも、おのずからその気持は伝わるだろう一というわけである。
勉強がはじまったのは、5年前のことである。どんなに多忙でも年中勉強はつづけた。いろいろわかってきたので、それはスライドにして塩田の人たちに伝えることになった。塩田を見直すための「塩田の文化財」という一巻のスライドは、すでに三カ年、塩田全地区の公民館や老人会など巡りつづけている。
しかしスライドでは、人や時に限度がある。いっそそのフイルムをもとにして、各家庭にそなえつけられるような本ができないかという発想が、この書をつくるきっかけとなった。
それからは、少し大げさにいえば、みなが家業も忘れて走りまわった三年間であった。撮影した写真三千二百枚、実地調査数十回。足は中国・韓国にものびた。なお塩田はその周辺と深い関係があることがわかってきたので周辺地域も研究の対象とすることとした。
幸い日本学界の最高権威、寶月圭吾博士(中世史)、太田博太郎博士(建築史)の直直の指導にささえられ、県写真界のリーダー柴崎高陽氏、同会員大西道夫氏等の同行撮影にたすけられ、信毎書籍出版センターの親身のお世話におんぶして、やっと発刊にこぎつけることができた。
この間、市村県教育長・永野上田市長・太田信濃教育会長はじめ、大ぜいの方方から激励のことばをいただき、なお、上田市連合自治会では総力をあげて支援するという異例の措置をとって下さったことである。
さらに特記しなければならないのは、吉村本県知事が、多忙の中をおして本書の題字の筆をとって下さったことである。
いずれも身にあまる有難いことといわねばならない。
通例ならば、こうした書に「まえがき」などつけぬものときく。泥くさくなるからだそうだ。
しかし、この書は、その泥の中から、手弁当、手造りで生れたものである。むしろこうした「まえがき」を読んでいただいていた上で、頁を繰ってもらうべきではないかという仲間一同の意見もあって、あえてこの泥くさい「まえがき」をつけ、お世話になったみなさんにあつく御礼申上げる次第である。
昭和58年9月30日
塩田文化財研究所
代表黒坂周平
|