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 解説中禅寺薬師堂(重要文化財)

中禅寺薬師堂は、「方三間の阿弥陀堂形式」という古いかたちである。「三間四面」というのは、東西南北どちらの方からみても、柱が4本立っている建物のことだ。柱と柱の間を”間”というが、柱が4本あるのだから、柱の間−つまり”間”は三つあることとなる。そこで東西南北の四面に”間”が三つずつある堂−「方三間の堂」というわけである。
建物の平面が正方形だから、屋根をそのまま葺き上げて行き、てっぺんに、宝珠(先のとがった丸い珠)や、露盤(宝珠をのせる四角な台)をのせると、東西南北どちらからみても、同じ形の屋根にみえる。これを「宝形造り」といっている。
柱は、各面ともに4本ずつあるが、扉は正面(この堂では東方)に三つ、側面(南方と北方)に一つずつある。あとはみな板を横にはった板壁となっている。(ただしこの堂には裏側−西方に引違いの戸がついている。)
このような、建て方は、平安時代の後期から行われたいわゆる「阿弥陀形式」で、有名な岩手県平泉中尊寺の金色堂(1124年建立)などが、その代表的な例である。
それからもう一つ、堂のまん中に「四天柱」といって、4本の円柱が立っていて、その中に仏壇があり、本尊を安置してある。これも古いかたちで、時代が新しくなると、この「四天柱」が2本だけになったり、仏壇がずっと後の方へ行ったりする。この中禅寺薬師堂は、その点金色堂と同じく、「四天柱」が堂のまん中にあり、仏壇も、その中に入っているので、金色堂とあまり遠くない時期につくられたものと推定されるのである。
実はこれと同じような形式の堂が奥羽地方には、もう二つ残っている。福島県の願成寺阿弥陀堂(白水阿弥陀堂ともいわれる)と宮城県の高蔵寺阿弥陀堂で、前者は永暦元年(1160)、後者は治承元年(1177)に建立されたということがはっきりしているのだが、これがまた中禅寺薬師堂とそっくりの建て方である。
したがって中禅寺の薬師堂も、このころとほぼ同じころ−すなわち平安時代の終りごろ建てられたと考えてもよいのだが、細部について検討してみると、鎌倉時代のはじめごろの造立とした方がよいようだ。(それについては後でのべる。)
しかし、いずれにせよ、約800年も前のお堂が、本尊とともにこの地に残り、”中部日本最古の建造物”といわれていることは、注目すべきことといわねばならない。
”塩田”という名が史料にみえるのは、平安末期の承安4年(1175)のことであり、すでにそのころ、この地方には「塩田庄」という荘園が成立していて、「年年千段(反)の布を、年貢として京都に献上していた」ことが記されている。(『吉記』)
それから七年ばかりたって、木曽義仲が平家打倒のため挙兵したのは、この近くであったが、そのとき義仲に従軍した武士の中に塩田八郎高光という名が見える。(『源平盛衰記』)
さらに義仲が滅亡して、頼朝の全盛時代になると、”年貢未進の庄々”の一つとして「塩田庄」の名が出てくるし(『吾妻鏡』文治2年の条)、この年頼朝の重臣島津忠久(惟忠久)が、塩田庄の地頭に任ぜられたことも明らかである。(『島津家文書』)
その後、政権が北条氏に移り、信濃守護として北条重時が任命される嘉禄安貞のころ、この地方はまた活気を帯びてくる。「塩田は信州の学海なり」などといわれるようになったのはこのころのことだ。
中禅寺の薬師堂建立は、以上のような地方の歴史と無関係のことではないであろう。堂の建築に鎌倉初期の手法があり、本尊薬師如来の台座の一部にある墨画が、やはり鎌倉時代の初期のものと推定されている。とすれば、この堂の建立は鎌倉初期、島津氏が塩田庄地頭に任命されたころか、おそくても、この地が「信州の学海」といわれた時代を下ることはないであろう。
 
撮影日:
地区/自治会: 15西塩田/西前山
シリーズ: 塩田平の文化と歴史 4解説
登録されているキーワード: 神社 史跡 観光 
 
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