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 解説安宗郷と泥宮

小県(ちいさがた)郡という名は、今から1200年も前からあった郡名だということは、はっきりしている。そのころ信濃国には、佐久郡・諏訪郡・伊那郡など10郡があったことも間違いない。この郡の中には郷というものがあった。それがいまの町村に当ると考えてよいだろう。
小県郡の中には、海野郷・山家郷など、七つの郷があったことが古書(『倭名抄』)に記されているが、塩田地方は大体「安宗郷」といっており、青木から川西地方は、「跡部郷」・「福田郷」などに属していた。
塩田地方を「安宗郷」と言っていた証拠は、今も東前山区から柳沢区にかけての南方の山を「安曽岡山」といい、その山麓を「安曽岡」といっている点にある。−つまり地名にはっきり残っているのである。そのすぐ北の平坦部に本郷区がある。これが安宗郷の中心地であった。本郷区にある泥宮は、稲を生育する泥が御神体であったといい、安宗郷の鎮守であった大切なお宮である。
古代、九州阿蘇山麓にいた人人が、大和平野(奈良県)に移住し、大和朝廷をつくるため、大きな力となった。この人たちは多氏と呼ばれ、その系統が信濃国造として古代の信濃国に赴任してきたと考えられている。(小県郡という名も、その系統の人の名からつけられたものである)信濃国造といえば現代の県知事に当る職だが、その人たちが信濃に落ち着いた場所が小県郡塩田地方であった。そこで九州の故郷の名をつけて、この地方を「あその郷」といったと推論される。
この多氏たちは、九州からやってきて、まず大和平野の中心部に落ちつき、そこに多という集落をつくった。ここには今も多神社というりっぱなお宮が残っている。いわば塩田や小県にとっては、祖先の地ともいうべき社である。
 
撮影日:
地区/自治会: 14中塩田/
シリーズ: 塩田平の文化と歴史 4解説
登録されているキーワード: 神社 史跡 観光 
 
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