上田城が完成して間もない、天正十五年(一五八九)ごろから、真田昌幸は上田城下町の整備を始めましたが、矢出沢川のほとりには小県郡本海野村から紺屋職人を移住させ紺屋町をつくりました。
紺屋町をその場所に選んだのは染物業に必要な水を矢出沢川に求めたと考えられます。
特産物の上田紬もほとんど紺屋町で染められ、長く変色しない優れた技術は江戸の人々にも喜ばれました。
江戸末期には町の西に、多くの人々が住むようになりましたので、下紺屋町と名づけ、それまでの紺屋町を上紺屋町と呼ぶようになりました。
染物業は紺屋町の職人だけでなく、他の町や近在でも行うようになりましたが、開業には紺屋町の年寄(役職名)二人の許可を必要としました。
寛政六年(一七九四)に、このことについて再度「触れ」が出され、その徹底がはかられています。自分勝手に紺屋を始めるのは「不埓」であると厳しく戒め、上田藩は長い歴史をもつ紺屋町の紺屋営業権を保護しました。
江戸時代が終わり、明治時代を迎えるころになりますと、町には紺屋が一軒だけになってしまい、鍛冶町で七軒の紺屋が営業するようになりました。 |