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 鍛冶町の巻

元和元年(1615)、真田信之は小県郡海野郷海善寺村の鍛冶職たちを移住させて鍛冶町を造りました。
町ができてから九十年後の宝永三年には戸数が四十九、鍛冶職も三十二人となり、その後も鍛冶工業の町として発展を続けていきました。
この町で製造する鍬は、「上田海野の鍬」と呼ばれ、品質の良さが信濃国はもちろん、近隣諸国にまで知られるようになりました。
製品管理が厳重で、販売する地域の地質、習慣などにより鍬の重量を定めるという製法などが、信用を高めたのでした。
月窓寺は上田高校の前身・変則中学が置かれた学問の寺でもありました。明治十一年、衆寮(八十畳敷の座敷)を「校舎」として開校、中学科などの生徒約三十人が入学しました。墓地には上田藩出身の洋学者・赤松小三郎遺髪の墓があることでも知られています。
ざくろ祭で親しまれている本陽寺には仙石家廟所があります。大きな宝篋印塔を中心にした十三基の墓碑は、長い上田の歴史をしのばせます。寺の玄関は藩主屋形の玄関が移築されたものです。
 
撮影日: 平成3年3月20日
地区/自治会: 04北部/鍛冶町
シリーズ: 上田ところどころ 地域
登録されているキーワード: その他の文化 その他の交通 商業 
 
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